イタリアのトリノには、世界でも有数の規模と質を誇るエジプト博物館がある。
この博物館の学芸員のこぼれ話によると、19世紀の初頭に開館した同美術館は、偽物ばかりが展示されていた時代があったという。1800年代、エジプトの考古学はヨーロッパで大ブームとなった。そのため、古代エジプトの遺物が山とヨーロッパに流入した。しかし、真贋を見極める技術や専門家はまだ育っておらず、現在はエジプトのカイロに次ぐ世界的なコレクションを誇るトリノのエジプト博物館も、偽物にはずいぶん悩まされたという。
ナポレオンのエジプト遠征がきっかけで大ブームに

1798年から始まったナポレオンによるエジプト遠征。政治的なレベルではあまり成果がなかったといわれたこの遠征だが、学術的文化的にはヨーロッパな影響をもたらした。ロゼッタストーンの発見も、ナポレオンのエジプト遠征による業績のひとつである
ナポレオンのエジプト戦役の影響で、1800年以降、ヨーロッパには正規のルート以外にもさまざまなエジプトの遺物が流れ込むことになる。
考古学的に重要な古代の墓は次々と暴かれ、発見されたものはヨーロッパに輸出されていった。ミイラはその中でも、特に需要が高かった。
ミイラのアンラッピング・パーティーが流行!

ヨーロッパの人々のエジプトへの耽溺は、やがて「ミイラのアンラッピングパーティー(Mummy Unwrapping Parties)」なるショーまで誕生させることになる。文字通り、白い布がまかれたミイラの正体を暴いていくショーである。もちろん、学術調査という大義があったものの、より見世物的な意味合いが強かったといわれている。
やがて、ミイラは粉にされて「奇跡の薬」として売り出されるようになった。ヨーロッパの上流階級たちのあいだでこの薬は珍重され、金と同じ値で取引されていたという。
薬としてだけではなく、化粧品として、果ては肥料として、ミイラの粉が販売されるようになる。マーク・トゥエインの著作『The Innocents Abroad』の著述には、エジプトではミイラの粉が機関車の燃料となっているとある。
エジプトでは?偽ミイラの製造が大流行!

ヨーロッパのこの狂騒に、エジプト人ももちろん便乗する。当時のエジプトの路上では、エジプトに魅せられてやって来たヨーロッパ人相手に、お土産用のミイラが売られていたという。
とはいえ、巨大化するヨーロッパのミイラ市場の需要に、現地エジプトの供給が追いつくはずもなかった。そこで、エジプトでは自然死した人間の死体を、いかにも古代のミイラのように装飾する技術が誕生する。
死体の数が足りなくなると、犯罪者や貧困層の死体も「ミイラ」にされ販売されることになる。死体はまず、砂に埋められて乾燥される。その後、体内にタールを詰めて日光で干すというのが一般的なレシピであった。
偽物のミイラは、路上でも非常に高額で取引された。そのうえ、ヨーロッパ人は「メイド・イン・エジプト」のミイラに感無量であったと当時の記録は伝えている。
Sachiko Izawa
*Discovery認定コントリビューター
イタリア在住ライター。執筆分野は、アート、歴史、食文化、サイエンスなどなど。装丁が気に入った本は、とりあえず手に入れないと気持ちが落ち着かない書籍マニア。最近のひとめぼれは、『ルーカ・パチョーリの算数ゲーム』。@cucciola1007