怪物めいた奇妙な生物がひしめく『秘境』。そう呼べる環境などもはやこの日本には存在しないはず。…そう思い込んではいないだろうか?
いやいやいや、その認識は甘いぞ!
実は世界中の研究者たちが熱視線を注ぎ続ける秘境が我が国に、しかも東京湾に存在しているのだ。
その名は…東京海底谷。東京湾の入り口に人知れず切り立つ最大水深1000m超の海底渓谷である。
東京海底谷には数多の河川を通じて首都圏から流入した豊富な有機物が沈み込む終着点である。
したがって本来であれば貧栄養な環境となりがちなところを例外的に富栄養な深海という特殊な環境が成立しているのである。
その結果、深海生物たちが織りなす生態系の上位に君臨するトッププレデターである深海性のサメたちが異様に多産するようになっている。
このサメたちの存在こそが国内外から学術的な注目を集める大きな要素なのだ。
どれほどありふれているかというと、漁師がはえ縄を入れたり研究者が調査船で網を引いたりするまでもなく、一般人が釣り糸を垂らすだけでその姿を見られるほどに出会いやすいのである。
たとえばどんな深海鮫たちがいるのか見てみよう。
深海という言葉の定義には場合によって様々であるが、一般的には200m以深の水深を指すことが多い。
でらまず深海の入り口にあたる水深200mへ魚の切り身を刺した釣り針を沈めてみよう。
ほどなくして釣竿がグイグイと勢いよく引き込まれる。さすがサメ、泳ぎがパワフルだ。
やがて水面に浮くのはフトツノザメである。
ヒレは大きくボディラインは流線型。まだまだサメらしさをとどめた種であるが、やはりどことなく雰囲気が独特だ。なんせ眼が緑色に光っているのだ。詳しくは後述するが、これは深海鮫に共通する特徴である。
さらに少しずつ水深を下げていくと、サメのチャームポイントである大きな背ビレを欠いた体型と大きく口の裂けた悪役面が印象的なエドアブラザメや全長20〜30cmしかない超小型のサメであるフジクジラなど一般的なサメのイメージから外れた深海鮫たちが釣れるようになってくる。
こうなってくると面白い。さらに深く、さらに深くと仕掛けを下ろしていくとアイザメやユメザメといった全身が真っ黒に染まったサメたちが現れる。
これは深海の暗闇に溶け込むべく獲得された合理的な体色である。
また、水深400mを超えたあたりからヘラツノザメ類やナガヘラザメなど、やたら面長のサメが増えてくる。
このヘラ状に伸びた鼻先には他の生物が発する微弱な電気を感知する『ロレンチーニ器官』という感覚器が所狭しと並んでいる。そもそもの餌資源が少なく、太陽光も届かない深海の暗闇においては食料となる小魚やイカなどを探す上で視覚のみでは心許ないのだろう。深海鮫たちはこうした特殊なレーダーを発達させてきたのだ。
もちろん、サメだけあって嗅覚も優秀。そのため釣り餌も匂いの強い青魚やイカの内臓を使用するのが効果的である。
また、体型からも「サメらしさ」が感じられなくなってくる。
サメといえば引き締まった流線型のボディに強く水を掻き潮を切る大きなヒレというとにかく「速く泳ぐ!」という一点に特化した体型をイメージしがちである。
ところが、こうした深海鮫の多くはなんというか…だらしない!
やや起伏に欠ける寸胴体型で、ヒレも体に対してやたらと小さい。
この傾向はより深場の鮫ほど顕著である。これは食料に乏しい深海で余計な遊泳運動によるエネルギー消費を抑えるための形態なのだろう。
たしかに、水深200mで釣れるフトツノザメはまだ激しい抵抗を見せたが、それより深いエリアで釣れた深海鮫たちは針にかかった際の引きも明らかに弱々しいのである。たまに頭を振って申し訳程度に暴れる以外はもはやなすがまま。めちゃくちゃ省エネしてるよ彼らは…。
また、彼らに共通する特徴である光り輝く眼ももちろん深海での生活に特化したものである。
深海鮫の眼にはタペータム(輝板とも)と呼ばれるある種の反射板のような構造が存在している。これによって真っ暗闇の深海底でわずかな光を反射、増幅して視認するのだ。
わずかな光とは餌となる小魚やイカが発する仄かな生物発光である(深海の小動物にはホタルイカやハダカイワシのように発光器官を持つものが多い)。
漁師や釣り人には「気持ち悪い」「不細工」などと評されることも多い深海鮫たちであるが、こうしてその異様な風体が秘めた理屈を考えながら見てみるとまさに機能美のかたまりと言うほかない。実に格好のいい魚たちである。
以上、一般人でも会いに行ける東京湾の深海鮫たちを紹介してきた。
テレビなどのメディアではミツクリザメやラブカ、メガマウスといった有名どころばかりが取り沙汰されるが、その他にもこうした魅力的な深海鮫たちが多数生息しているのだ。
誰もが知る東京湾の底に未知だらけの海底谷が口を開けている。
そして誰だって、その気にさえなれば、東京から日帰りで深海鮫を探す冒険ができる。
それってとてもとても素晴らしいことなのではないだろうか。
…海外旅行もいいけれど、この夏休みはこんな身近な秘境に挑んでみるのもいいのでは?きっと一生ものの思い出になるだろう。
平坂寛
*Discovery認定コントリビューター
生物ライター。五感で生物を知り、広く人々へ伝えることがポリシー。「情熱大陸」などテレビ番組への出演や水族館の展示監修などもつとめる。著書に「喰ったらヤバいいきもの」(主婦と生活社)
「外来魚のレシピ: 捕って、さばいて、食ってみた」「深海魚のレシピ: 釣って、拾って、食ってみた」(ともに地人書館)がある。
ブログ:平坂寛のフィールドノート