モノ作りビトの履歴書 造形作家 竹谷隆之【インタビュー】

造形作家 竹谷隆之。その手が創り出してきたものは、フィギュアにとどまらず、映画に登場するキャラクターなど多種多様だ。

彼が手がける造形物の多くはこの世ならざる「異形」のものたち。その作品は海外でも注目を集めており、世界的に著名なクリエイターの中にも彼のファンだという人は少なくない。

本インタビューでは、彼はどのようにしてその卓越した造形センスを磨き、異形のものたちを生み出すようになったのか。竹谷氏の人生の履歴書から、その創作の秘密に迫る。

Credit: たけやけいこ

ーまず、子供のときの話から聞かせてください。

竹谷隆之氏(以下、竹谷):生まれ育ったのは北海道にある積丹町という漁業の町です。子供のころは『ウルトラマン』や『仮面ライダー』が出はじめで、そういったテレビ特撮ものにどっぷりと浸かりつつも、友達とは海や山で遊んでいました。夏は泳いで、冬は雪で遊んだり。断崖絶壁を歩いたり手こぎボートで遠くに行ったり……。今思えばかなり危険なこともしてたとゾッとしますね。

親父は近海で定置網をおこす漁師でしたが鉄砲で山の猟もしていて、それに一緒に連れて行ってもらったりもしていました。もちろんクマ猟などの危険なものには同行させてもらえませんでしたが、仕掛けたトラバサミにかかったタヌキやキツネを回収するときなどには同行して、子供としてはかなりショッキングなシーンも目の当たりにしましたね。

5歳のときに目の前で親父がゴマフアザラシの脳天を撃ち抜くのを見てしまったことも。そんな日常で、さまざまな動物を眼の前で殺されたり皮剥ぎを手伝ったりしたことは、今では貴重で大切な体験だったと思っています。

 

ーモノ作りの世界に行こうとしたきっかけは

竹谷:子供の時から絵を描いたり何か作ったりするのが好きだったので、小学校高学年の時は焼き物クラブに入ったりしましたが、中学生の頃は全く部活などはせずに遊んでましたねー。サボることが目的で数人で示し合わせて入ったバレー部で、練習せずに帰ってみんなで海に遊びに行っていたんです(笑)。

札幌の高校に進んで2年生の時には美術部に入りましたがこれまたやる気がなく、「スターログ」というSF雑誌に影響を受けてポスターカラーでお粗末な宇宙船や恐竜を描いたりしてました。油絵はやったことがなくて、印南くんという後輩の油絵にイタズラしたくらいです。あのときはごめんなさい!印南くん。

その頃からなんとなくボンヤリとは美術の方向に行きたい気持ちはあったのですが、高校では万事そんな調子で勉強を全くしないでプラモデルばかり作っていたので、学科試験のある美術大学を受験する気もないまま卒業が近づいてしまいました。

そんなある日、ゴツくておっかない美術の先生に「どうしましょう…」というミもフタもない相談をしたところ、「お前、研究所行かねえか?」と言われ、気迫に押されるやら受験勉強がしたくないやらで言われるがままに資料を取り寄せました(笑)。美術の研究所というからには「絵の具の調合でもするのかな」ぐらいにイメージしていましたら、資料には専門学校とあり、そこが入学することになる阿佐ヶ谷美術専門学校でした。「研究所」というのは昔の名称だったようです。

 

ー当時はどういったものに影響を受けていたのでしょうか。

竹谷:高校当時は『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』や『スタートレック』、『エイリアン』などの映画が強烈に焼き付きましたが、その関連で前述のスターログというアメリカ発のSF雑誌を毎号買っていました。その雑誌の企画にSFアート大賞というのがあったのですが、応募する気もないのにそれらしい絵を描いていたり、タミヤの人形改造コンテストに応募しないくせに1/35スケールのプラモデルの兵隊を改造して『スタートレック』や『宇宙戦艦ヤマト』のキャラクターをつくっていました。

思い返せば、挫折するのが嫌でコンテストというものに応募しなかったんでしょうね。「選ばれないだろう」という前提の、かなり後ろ向きの考えで。今はおかげさまでもう少し前向きです(笑)。

Credit: Discovery

 

ー北海道を出て東京の専門学校に通ってからはどのように生活が変わりましたか。

竹谷:それまでよく知らないくせに都会に嫌なイメージを持っていたので、実は東京には行きたくなかったんです。でも流されるままな性格のほうが強かったのか、なるようになれと。実際その学校しか受けていませんし。

それまで生活していた北海道は田舎だったので、自然にあるものの形が複雑で情報量が凄かったり、建物も木でできていてキチッとしたまっすぐな「線」が少ない世界でした。東京に来たら、見渡す限り人工物だらけで直線が多くて驚きました。それが原因か水や空気のせいかわからないのですが、蕁麻疹が出るようになってしまいまして……。皮膚を引っ掻いたとおりにミミズ腫れが出るもんですから、当時同級生だった寺田克也(現イラストレーター・漫画家)が僕の腕にヒワイなラクガキして面白がったりしてました。その後病院で薬をもらったら治りましたが。

専門学校での生活は、いわゆる普通の勉強をしなくていい、美術関連のことだけをやっていればいい環境になったので、そういう意味ではもうパラダイスでしたね。友達関係も含めて本当に楽しかったです。ただ、課題が毎日のように出るのでヒーヒー言ってましたね。でもその課題も、僕にとってはひとつひとつが初めてのことだったので新鮮でした。確実に今の僕の血肉になっているんだと思います。

 

ー当時、アルバイトはしていたのでしょうか。

竹谷:田舎にいたときは友達と一緒に浜でコーラの瓶を拾い集めてお店に持ち込んで買い取ってもらったり、海でモズクを採っておじさんに買ってもらったりというのはありましたが、まともなアルバイトはしたことがありませんでした。

東京に出てからは、友だちに誘われて池袋のゲームセンターでアルバイトをしたことがあります。年末年始は働き手が少ないために時給が高くなるので、正月に実家にも帰らずに。ビル全体が大きなゲームセンターになってて何フロアーもあるところで、ワイシャツに蝶ネクタイつけて「いらっしゃいませ」って感じです。異常に似合ってなかったですねきっと(笑)。

そのアルバイトでの思い出は、店を閉める時に店長から「電気消しとけよ」と言われたので何も考えずフロアの電源を全てオフにしたら、アイスクリームの自動販売機の電源も消してしまっていて……。次の日すごく怒られたことでしょうか。だって全部消してって言われたので。ダメなやつですねー(笑)。

あとは、アーケード筐体のメンテナンス用の鍵を持たされていたので、シフトを上がる直前に好きな台のクレジットを99まで設定しておいて、急いで着替えて戻って一般のお客さんに混ざって飽きるまでゲームをする、なんてことも……。今思うと…ほんとバカでした。

Credit: Discovery

 

ーどのような経緯で造形をやるようになったのでしょう。

竹谷:専門学校生の時、2年生から3年生に上がる時に進級制作というものがあったのですが、寺田が加藤直之さん(イラストレーター)の画集を持っていて、僕も高校生の時に好きだった絵がそこに載っていました。これを立体で作ればいいじゃないかと寺田に言われて。ビジュアルデザイン科という平面デザインの学科でしたが、何をやってもいいというのでノセられるままに立体を作ることにしました。立体物なら、先生もよくわからないで評価してくれるだろうという浅はかな下心もありながら(笑)。

加藤直之さんの画集にあったのは「MOON ANGEL」というタイトルで、川又千秋さんの小説『天界の狂戦士』の表紙用のものでした。その深刻なムードの装甲スーツのデザインには高校生の頃からとても惹かれていましたが、それまではデザインが複雑すぎてとても自分で作ろうなどとは思えませんでした。しかし寺田に背中を押されたこともあり、難しいけど取り敢えずやってみようとしたのが、今考えれば重要な転機だったのかもしれません。ロボットのプラモデルや集めていたプラモデルのパーツなどを使って何もないところから作るという手法もほぼ初めてで難易度が高かったのですが、「ちょっとムリっぽいことをやってみる」というのは有意義な経験値になったんだと思います。

それを作ってしばらくして、西荻窪の模型屋さんにふらっと行ったときに店員さんが「どんなの作ってるの?」と気さくに話しかけてくれて。もし作ったものがあるならうちで飾るからと言ってくれたので、「じゃあ持って来ます」とその進級制作の作品を飾っていただくことになり、後日それを見た小林誠さん(デザイナー・アニメ監督)から「今、SFの造形物を作る仕事をやってるので手伝ってくれませんか」とハガキが来たんです。

たまたま住んでいるのが同じ地域だったので、まずは近くのカレー屋で待ち合わせをして、それから仕事を手伝うようになりました。好きな宇宙船やクリーチャーを作っていればいいわけですからすごく幸せで楽しかったですね。

「竹谷隆之作品集・漁師の角度(ホビージャパン社刊・現在絶版)」掲載の「MOON ANGEL」

それが3年生の時だったのですが、小林さんの仕事でモデルアート社という模型雑誌の出版社に出入りするようになり、写植を貼ったりする編集作業の手伝いや書籍のロゴを描いたりしているうちに、経営者の方に「就職はどうするんだ」と聞かれ「なんにも考えてません」と答えて。「じゃあ、うちに来ないか」となって、有り難いことに社員という形で雇っていただきました。

モデルアート社に勤めている間に雨宮慶太さん(映画監督・デザイナー)と知り合いました。寺田が雨宮さんの会社でバイトしていた時に「作り物できるやつ知らないか」と言われて、誘ってくれて一緒に行ったら、じゃあ仕事をやってくれということになりまして……。

当時はいろいろなパビリオンの展示映像をやっていて、映像に出てくる宇宙船や怪獣を雨宮さんがデザインして、それを僕が作って撮影に立ち会ったりしていました。モデルアート社に行きながらだったので寝る時間がほんとになくなって、いつもフラフラしていましたね(笑)。

途中から雨宮さんの仕事だけじゃなくなって、小林さんや仕事で知り合ったディレクターの方が仕事を回してくれるようになっていったんです。普通に造形会社さんに回すよりは僕みたいに個人でやっている若造の方が安上がりだったんですね。こちらとしても駆け出しにしてはいいギャラをいただけるのでありがたかったんですがフラフフラな状況は酷くなるばかりでした。

 

ーどういった作り物が多かったのでしょうか。

竹谷:当時の3D映像に出てくる隕石の怪物みたいのなものが、雨宮さんから頂いた最初の仕事でした。3Dだからツノが前にグイーっと出てる方が効果的なのではないかと勝手にデザイン変えたりして…。自分ではアレンジの範疇と思っていたのですが、今思うとデザインを変えたことで撮影現場で困ったことが起きていたんではないかと想像できます……。

他には宇宙船や乗り物的なメカが多かったですね。雨宮さんのデザインを元に基本構造を作って、それにプラモデルのパーツを貼っていくというスター・ウォーズ的な手法がほとんどでした。

 

ー造形の仕事だけでやっていくことになるのはいつ頃でしょうか。

竹谷:雨宮さんと仕事で会うたびに「早く会社辞めれば」「早く早く」と言われていたんです。確かに体もしんどいので就職して2年経った頃に会社を円満退社しました。でも辞めたら雨宮さんに「なんで辞めたの!?大丈夫か?」って言われて(笑)。

それで雨宮さんが監督した「未来忍者・慶雲機人外伝」に参加して、それまでやったこともない映画の操演用のミニチュアだとか、アップ用のメカヘッドだとか内トラ(内部スタッフのエキストラ)として爆発から逃げ惑ったり……。

逆に造形の仕事だけじゃない日々が続いたんですが異常な経験値積めて面白かったです。

 

—フィギュア造形の世界にはどのようにして入ったのでしょうか。 

竹谷:その「未来忍者・慶雲機人外伝」の白怒火というキャラクターをフィギュアとして販売することになって原型を担当したのが初めてか…それに近かったと思います。美術学校には行っていますが粘土造形の勉強をキチンとしたわけではなかったので、かっちりした形の左右対称や服のシワに難儀していましたら小林さんや寺田に指導されたりもして有り難かったです。

当時マックスファクトリーから販売されていた「未来忍者・白怒火」のソフトビニールキットを完成させたもの Credit: 竹谷隆之

その頃はガレージキット(少数生産の組み立て式模型)の黎明期だったので、僕みたいな人間が作ってもなんとかなる時代だったんですね。今はあらゆる製品の完成度がめちゃくちゃ上がって、ある意味キビシイ時代ですが良いことなんだと思います。

その後、アメリカで出始めたスカルピー(造形用オーブン粘土)という素材がありまして、友人がアメリカから買ってるものを分けてもらって使ってみたところ、面白いように思い通りに作れるのでハマりました。それでやたら生物的なものとか人体っぽいものを作るのが多くなりました。素材が面白いので作りたくなるんですよね。

でも決して最初から人体的な骨格や筋肉の構造が思うように作れたわけではなかったです。阿佐ヶ谷美術専門学校の卒業制作で等身大デビルマンのオブジジェを作ったのですが、その時は探り探りでした。当時、寺田はもうすでに絵がうまくて筋肉が大好きで、立体として筋肉や骨格を把握していたのでいろいろアドバイスをもらいながらやりました。鍛えられましたね。

ここまでやたら寺田が登場しますが、まあほんとにすげーですからね。僕が超未熟者だった時に彼が横にいてくれて感謝しています。

 

ー今はどのような素材やツールで作っているのでしょうか。

竹谷:作るものやデザインによって様々ですが、生物的なものならスカルプトクレイなどの造形用オーブン粘土やエポキシパテを使っています。メカっぽいものや装飾的なものの場合はエポキシパテや樹脂の類が多いですね。好きな素材というよりは、状況に合わせた素材を論理的に決めるように心がけてます。

流用するものとしては、生物の骨、殻、毛、植物、樹脂・金属などのパーツ、糸ハンダやアクセサリー類……形があるものはなんでも使います。特にクリーチャーを作る時に使いやすいのが動物の骨や甲殻類の殻などです。精緻にできてますし、左右対称で連なってて少しずつ小さくなったりとかは…手では作りたくないですからねー。そういうのはZ-Brushなどのデジタルモデリングソフトでの作業は向いてますよね。僕は挫折中ですが。

ツールは、最初は人形用のスパチュラ(造形用のヘラ)や歯科医用のもの、インレタを擦る道具、彫塑に使う木製のヘラなんかを買ってみたりしたのですが、売っているものだけではなくて針など使えそうなものに柄をつけてみたりして、使えるものはなんでも使っています。最近は自分で作った何種類かのスパチュラを、ツールメーカーのクロス・ワークスさんと組んで製品として発売することになりました。

 

ー当初はどなたかが描いたデザイン画から立体を作っていたわけですが、いつからご自身でデザインするようになったのでしょう。

竹谷:たとえば雨宮さんとの仕事の場合ですと、雨宮さんがコンセプトや演出意図を考慮したデザインを最初に描きますが、当然細かいところまで描かれていないこともあるので、「解釈」の範疇でアレンジして作ったり、立体にする前に大きさや各部位の比率を割り出す必要がある場合は、僕が真正面や横からの図面的な絵を描いて、その段階でアレンジする場合もあります。

特に雨宮さんの場合は、狙いや演出意図に沿っていれば割と自由にやらせていただけたので、自分のアイデアも入れられる面白さがありますね。もともと自分でもデザインしたかったこともあって、誰に言われるわけじゃなくてもなるべく絵に起こす作業を増やしていったら……有り難いことにいつの間にかデザインの仕事をいただけるようになっていったんです。

 

ーキャラクターデザインをする場合、どのように考えながら形にしているのでしょうか。

竹谷:仕事によって様々ですね。多くのキャラクターデザインの場合はその姿形がコンセプトを体現してるようなデザインが求められますが、友人の韮沢靖(デザイナー 故人・2016年没)のように、それがデザイナーの個性と一体化して唯一無二の仕事をできる天才もいますが、僕の場合、基本はその方向を目指してはいるんですが…いろいろ至らなかったりモガくことも多いです。韮沢が言ってましたが、一番重要なのは「そいつがどういうヤツなのか」ってことですから、そのお題次第でどう考えるかだと思います。

それとは別に、個人的には「(違和感含めた)実在感」を重要に考えることが多いです。機械やコスチューム等は別ですが、人間のデザイナーがデザインしたことがありありとわかるものよりも、自然の法則で形づくられつつも、その埒外に行ってしまったような形がとても魅力的に感じるんです。「自然の法則だったらどうするか」+「それを少しイタズラする」みたいなことでしょうか。それがほんとに目の前に実在したら違和感含めて説得力のあるデザイン、という事かもしれません。参考にするのは、やはり奥深すぎる自然の造形物にインスピレーションを求めることが多いですね。

とはいえ、仕事だと毎度そういうわけにも行かないので、たとえば「ハート」がテーマでいわゆる敵キャラクターの場合は、ハートの形をそのままストレートに使わずに、分裂させたり歪めたり欠損させたりして、サブリミナル的にハート型を感じるようにと考えました。でもこんなの伝わりづらいしもっといろんな方法があるとは思いますが。

何かオリジナルのものをやってくださいと言われた時は(発表する場や、求められる方向性によっていろいろだとは思いますが)、独自性を出さなくてはならないので、まずは感覚的に自分がすでに持っているもの、好きなものを基本にして考えますね。

あと、例えば「(体験的に)自分は何でできてるんだろう」と考えたときに、その中で多くの人と違うものと同じものは何だろうっていうことを考えるのも、大事な気がします。

「漁師の角度・完全増補改訂版(講談社刊)」より

例に出して恐縮ですが、『漁師の角度』という作品を始める時に考えたのは、生き物が目の前でバンバン死んでいくような田舎で暮らしていた自分の子供のときの体験を利用することでした。一方で、僕が東京に出てきてから感じた、都会には動物の死骸や朽ちていくものが極端に少なくて、少しでもそういうものがあるとすぐにかたづけられたり新しいものに取り替えられてしまうことに皆が慣れている、と感じたことも利用します。

僕の体験したこの両極端なことを2つのキャラクターに分離させて、都市生活者の写真オタクの若者と北海道の漁村で暮らす方言がキツい老人凄腕漁師のディスコミュニケーションな話を考えることにしました。SFなのでメカは登場するんですがハイテクなのに錆だらけにしたり、人間の天敵に変化した魚類や動物たちがそこら中にいるという設定にして、造形物を好きなように楽しんで作りました。あ、キャラクターデザインの話に……なってましたか?

 

ー竹谷さんは世界中の若いクリエイターに影響を及ぼしていますが、そういった新しい世代の作品などは見ることはあるのでしょうか。

竹谷:影響を及ぼし云々っていうのはお互い様な気がします。今はネットを覗けば完成度が高いものが無尽蔵に閲覧できるので、「わーすげーー!」って見入ってしまいますね。でもあんまり見ていると、これからこういうのをやりたいと思っていたのに似た方向性のものを見つけてしまって「もうあるからいいや」と思ってしまうので、あまり見すぎないようにして…、という感じで。

インプットはあまり積極的ではないですね。映画を観るのもたまにですし。これは見ておいた方がいいと人が言ってくれたものは観るようにしていますが、映画や同業者の作品というのはあんまり数は見ないです。でもそれは良くないので!もっと見るようにします……。自然現象とか、自然の造形物ならいくらでも見たいのですが…。資料探しは好きなんですけどね……。

 

ーこれからクリエイティブなことをやりたい若い世代にアドバイスをお願いします。

竹谷:手を動かして何かを表現することに向かうなら、情報を仕入れすぎて頭だけが良くなって(知りすぎて)しまう前に、わけも分からず好きなことに向かって手を動かしながら経験していくほうが良い気がします。あとは、人ときちんとコミュニケーションするということでしょうか。僕自身がちょっとコミュ障出身なので余計そう実感するのですが、とくにフリーランスだと依頼主と話して意図や要望を仕事に反映させるのは必須作業なわけです。だまってデザイン勝手に変えちゃダメなんですよ…。実感です。

あとは、いろんなものを観察して、分析して、理解するというのが大事だと思います。そうでもない美術の世界もあるので一概には言えませんが、この世にあるさまざまな「形」を観察して、これはどうしてこんな形をしているのだろうと考えるようにしています。どんな形にも理由がありますから。

クリエイティブというよりは造形業的ですが、僕は若い頃、日常で目についたものを片っ端から「もし自分が造形物として作ることになったら、どんな材料を使って何を流用して作るのか」という妄想シミュレーションをしていました。パイプ椅子でもバイクでもお婆さんでも子犬でも……何分の1サイズなら、どんな素材を使ってどういう手順で立体にしようかと考えることが訓練になるんですよね。ある日ひらがなの文字を見てもそれ考えだしたときは「もういいや」って思いましたけど。

しかしそんなことより、あれこれ考えながら実際に作って完成させる経験を重ねるほうが断然有意義だとは思います。

 

ー貴重なお話ありがとうございました。

Credit: たけやけいこ