なぜ日本人が山に対して夢を抱くか

一度も登らぬ馬鹿に二度登る馬鹿。あなたはこの諺を聞いたことがあるだろうか?私はもう二度ほど富士山に登り、近々また登る予定だ。いづれの場合でもとても印象に残っているのは、頂上に着いた時の周りの露骨な感情表現である。涙する者、歓喜の声を上げる者、万歳三唱する者。この世の物とは思えない景色、そして、決して簡単とはいえない道なりを考えるとこれはさも当然なのかもしれない。

しかし、何度か登山をしていると妙なことに気づく。なぜか、山の高さや登山の難易度は関係なく、日本人は頂上に着くと過度な感情表現をするということである。例えば、長野県の軽井沢近くのハイキングコースに行った時もそうだった。このハイキングコースは街中からこの世の物とは思えないような別荘地の間を抜け、山頂まで続くルートだ。

私と同じタイミングでちょうど山頂についた若い二人組の女性がいた。天気がよく、心地よい風を感じながら頂上からの目下に広がる緑の地平線を静かに楽しんでいるとその二人組が景色について話をはじめた。まとめるとこんな感じであった。

「すごい!うちら、登れたよ!なんか、山すっごいよね。」

「うん、めちゃくちゃ景色いいね。最高じゃん。」

「緑が深いし、とんでもなくきれいだよね。」

「「おつかれさまでした!!」」

と、このような感じの会話を大きな声でしばらく続けていた。景色のこと、自分達の今感じていることなどを声のてっぺんで張り上げるかのように話していたのだった。ただ、私には彼女らが大げさに話していたり、皮肉でそこまで感情をあらわにしているようには思えなかった。まるで子供のように、思うがままに、感情の赴くままに全てを声にしていたように思える。

読者のみなさまがどうかは分からないが、山頂につくとちょっとゆったりとした気持ちになり、写真の一つでも取り、同行者がいた場合は「よかったよね、きれいだよね」などの簡単な感想を言い合ってからビールとピクニックを楽しむのが自分流。なので、逆に上記のようないわゆるオーバーリアクションとでも取れる行動をする日本人の習性がとても不思議に思える。なので、ここからちょっと深入りしてみたい。

  • 最も神聖なる地

日本人にとって山は長年、信仰の対象であり、実際に富士山は巡礼の地として拝められていた。富士山のふもとにある湖から、冷たい足場をすくうような風が吹きつける山頂まで信者たちは登った。決して、簡単な道のりではなかったが、頂上に着けばそこはまるで天と地を跨ぐかのような特別な地だった。そう、地上で最も神に近い聖なる場所だったのである。

登山道にはお坊さんなど聖職者専用の宿なども建てられ、鳥居なども多く建てられた。神道全般として、川や海、山や石など自然界全てのものに神が宿るという考えがあるが、その中でも特に、富士山には数多くの神が存在していると伝えられてきた。ただし、救いを得られる唯一の方法は、登頂し御来光を拝むというものであった。

古代、富士山をはじめとする全ての火山の守り神はコノハナサクヤビメという女神にもかかわらず、女人禁制とされていた。1868年の明治維新後女人禁制が解かれ、女性や外国人の登山も許されるようになった。初代駐日総領事および公使を務めたサー・ラザフォード・アルコックは初めて富士山に登った外国人でもあり、彼の登山後から信仰登山は徐々に減り、反対に娯楽やレジャーとして登られることが多くなった。

近年では、年間約30万の登山者がこの世界遺産に挑んでいる。多くの登山者が山頂までの半分の位置にある5合目からの登山を開始しているが、個人的にはやはりふもとからの登山をお勧めする。信仰登山が廃退した今日でも、古代に建てられた神社はそのままの姿で人を導いており、道なりは今も険しく、頂上からの景色は変わらず美しい。そして、御来光を拝む人は後を絶たない。歴史の流れで登山自体の立ち位置は変われど、根底にあるものは変化せず、人々に受け継がれているのだ。

また、最後に、未だ日本には精霊信仰が根付いていると言えるが、日本人の多くは自分が神道の信者であるとは答えないであろうが、実際には日々の生活の中で無意識に神道を取り入れている。例えば、多くの人は新年の初詣を欠かさない。このような側面はもはや日本文化の一部になっている。

  • 気持ちの違い 高揚vs 沈滞

山をはじめとする自然を崇拝する歴史は日本の文化の一部であるが、先日、私が山頂で耳にしたオーバーリアクションはあまりにも今までの欧米と日本の文化的基盤から外れていると感じた。一般論として、西洋のような個人を尊重する文化では興奮や幸せ、恐怖などの感情がより重宝される。その反面、東洋では静寂や平常心など気持ちが落ち着く、沈滞する要素が大切にされている。

私は長年、日本で働いているのだが、多くの日本人が気持ちや感情に蓋をしているのを何度も見てきた。しかし、山頂では誰もが素直に感情をあらわにしている。

もちろん、感情は環境に影響されるので、自然に対する畏敬の念によって注意が外的環境へと向けられ、日本人のような全体主義の文化の人たちも安心して感情を表現できるのだろう。自分の内なる感情というよりは、山から湧き上がる感情なのだから、声に出せるというわけだ。

また文化的背景以外にも、自然の中にいるだけで人はリラックスし、心が開放的になるという事実も無視できない。広大な自然の風景写真を見た前後で自画像を描かせると、写真を見た後の方が、自分を小さく描くことがわかっている。マイケル・ポラン氏いわく、「自然の偉大な力は、エゴへの強力な解毒剤」とのことだ。

これは必ずしも私が目にした文化的な違いをすべて説明することにはならない。しかし、自然とつながることによって人間のエゴは緩和され、さらに日本人は外的環境と紐づけることで本来の感情を表現することができると言えるのではないだろうか。

 

 

Misha Yurchenko(ユルチェンコ ミーシャ)*Discovery認定コントリビューター

東京在住。元リクルーターで、現在は本やブログの執筆活動を行う。リクルーターとしてFacebookやAmazonなどの採用戦略の構築に携わる傍ら、自らの会社を起業し、日本語の勉強を続けるが、2018年に退職してからは主に執筆に専念。最近では、もっぱら旅行と読書、そしてとにかく書くことに時間を費やしている。幅広い分野に興味を持ち、執筆内容も心理学から起業、ブロックチェーン、生産性、日本、健康、やりがいのある仕事の見つけ方など、多岐にわたる。著書に「The STAR interview」「Cracking the Amazon Interview」がある。また、ResumeFeedback.coの創業者でもある。

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