紋章は名刺の代わりになっていた…貴族だけの特権ではなかった時代と国々

欧州のロイヤルファミリーや貴族の特権と思われがちな紋章。

実際、さまざまな意匠が盛り込まれたものものしい紋章は、いかにも由緒正しい貴族の血を誇っているかのようだ。

しかし、紋章のデザインは非常にシンプルなものも多い。そして、それを持つことは貴族とは限られなかった。フランスの人類学者ミシェル・パストゥローによれば、その昔の紋章は現代の「名刺」の役割を果たしていたのだという。

 

紋章の使用が自由であった時代

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紋章の起源は、ヨーロッパでは「恐怖の1000年」と呼ばれる西暦1000年を過ぎた後であったといわれている。当時は、個人、家門、あらゆるコミュニティが、いかなる紋章を持とうが全く問題がなかった。逆にいえば、紋章を使用しようがしまいが、まったく個人やコミュニティの勝手であったといえる。

紋章を愛好したのが、王侯貴族や富裕層、インテリ層に多かったのは、それが現代の「名刺」と同様に、「肩書を誇る」という意味合いも大いにあったからだというのが、パストゥロー氏の主張するところである。確かに、法王の紋章には法王冠が、枢機卿には赤い帽子が、王には王冠が描かれているのだからわかりやすい。それがいつの間にか、紋章の所有は貴族階級の特権という偏見が生まれる土壌となった。実際には、個人だけではなく家族、職業別組合、都市、修道会、大学、あらゆる人々やコミュニティが、紋章を所有していたのである。イギリスやフランドルでは、農民も紋章を持っていたことが確認されている。

 

封建社会の確立と主に浸透した「紋章」

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紋章の起源については、諸説がある。

ルネサンスの時代には、旧約聖書のアダムやノア、古代ローマのジュリアス・シーザーも紋章を使用していたという珍説が存在していた。さすがにこの説は、16世紀に否定されている。

紋章の普及について最も一般的な説は、十字軍の遠征が大きな要因というものだ。頭まで武具で覆われる戦場では、味方と敵の認識が難しかったというのがその理由である。また、蛮族の侵入に起因するという説もあったが、現代の紋章研究者の間では11世紀の終わりから始まった封建社会の変容と軍事装備の変化の時期と紋章の普及が重なっていることでは意見が一致している。

1096年から始まった第1回十字軍には紋章は一般的ではなかったが、1147年から始まる第2回十字軍では紋章を目にすることができるのである。

 

ポピュラーなデザインは「かぶり」が続出

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フランスでは、太陽王「ルイ十四世」が国内の紋章を調査し、それを個人で持つ人に税金をかけていたという逸話がある。

しかし、フランスではナポレオンの時代以降「紋章」は公的な役割が無効となった。イギリスやスコットランドと違い、フランスには紋章を管理する公的機関が存在しない。そのために、同じ紋章を使用していることが原因で裁判になっても、それを裁く根拠となる古文書や記録がまとまっていないのである。フランス王室といえば百合の紋章が思い浮かぶが、イギリス王室の獅子とフランスの百合は、紋章のデザインとして最もポピュラーなものであり、こうしたポジティブなデザインは偶然の「かぶり」が避けられない状態である。これを避けるために、イギリスやスコットランドには「紋章」を管理する紋章院が存在しているのだ。

フランスでは、紋章の使用はまったく自由な状態であるが、いかにも由緒正しきいわれをそれらしくウリにして、紋章を高額で売りつける詐欺も横行している。また、公的機関の紋章が他機関とかぶらないために、文化・通信省内に紋章に関する諮問機関だけは設置されている。諮問機関であるから、登録や管理や販売はしておらず、権限も有していない。

ちなみに、欧州で確認されている紋章の数は100万に及ぶといわれているが、その3分の1が貴族階級のものであるという。

 

シンプルなデザイン、3色までが記憶に残りやすいデザイン

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我々が目にする紋章で最も身近なものは、サッカーチームのそれである。色やデザインで応援するチームが一目瞭然という、紋章の最たるものであるといえる。また、プジョーやフェラーリなどの名車の紋章も、一度見たら忘れられない印象を残す。

一目瞭然という条件で言えば、球体だけで構成されたメディチ家の紋章や蜂が印象的なバルベリーニ家の紋章は、プロパガンダとしても大きな役割を果たしている。歴史的建造物やモニュメントに、その紋章があれば人々の思いは自然と紋章の持ち主に馳せられるからである。専門家によると、シンプルなデザインで色も3色までが、人間の頭に残る理想的な紋章の条件なのだそうだ。ヨーロッパを旅していると「なぜこんな動物や果物が?」と首をかしげたくなるような紋章をあちこちで目にする。芸術における象徴と同じく、紋章のデザインにも個々の由来があり、「他人にはわからないけど、私(たち)だけはわかっている」という思いがそこには宿っているかのようだ。

他者とは異なるデザインを用いることはすなわち、貴顕としてのプライドであるとパストゥロー氏は語っている。かの有名な「明智の水色桔梗」は、その点でいえば満点の出来かもしれない。シンプルでそれでいてエレガントで、個人のあるいはグループの個性や伝統を表現することは、決して簡単なことではないのである。

誰でも所有できるけれど暗黙のルールは遵守しましょう、というあたりが、紋章の真の貴族的なところなのかもしれない。

 

 

Sachiko Izawa

*Discovery認定コントリビューター

イタリア在住ライター。執筆分野は、アート、歴史、食文化、サイエンスなどなど。装丁が気に入った本は、とりあえず手に入れないと気持ちが落ち着かない書籍マニア。最近のひとめぼれは、『ルーカ・パチョーリの算数ゲーム』。@cucciola1007