床屋の息子がスパイに、そして考古学者に転身!「インディアナ・ジョーンズ」のモデルとは

その名は忘れ去られていても、「この人なかりせば」という功績を残した人物は数多く存在する。イタリア人ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニも、その1人である。現在、大英博物館に残る巨大なラムセス二世像は、ベルツォーニによって英国にもたらされた。イタリア人の彼が、なぜイギリスにエジプトの貴重な遺物を運んだのか。

混迷のヨーロッパにおいて、「考古学」という学問が夜明けを迎えた時代の立役者の一人であったベルツォーニとは、どんな人物であったのか。

 

1815年、イギリスのスパイとしてエジプトへ

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ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニは1778年、北イタリアはパドヴァに床屋の息子として生まれている。16歳の時、父の職業を嫌ってローマの神学校に入学する。もともと好奇心が旺盛であったのか、当時イタリア半島を侵略していたナポレオン軍が有していた水力工学に魅せられて、パリに移る。つてもないパリで、ベルツォーニはキリスト教関係の小物を行商して糊口をしのいだという。1803年、25歳のベルツォーニはロンドンで俳優としてデビューした。2メートルの大男であったためか、芸名は「サムソン」。サムソンとは、旧約聖書に登場する怪力の持ち主である。俳優としてだけではなく、かねてから興味があった水力を利用した玩具を発明するなど、一貫性のない生き方をしていたらしい。

1815年、ナポレオンの帝国が崩壊。

ヨーロッパは武器とスパイ、そしてペストであふれかえるという大混乱期を迎える。37歳のベルツォーニは、なぜかイギリス政府スパイとしてエジプトのアレクサンドリアに上陸することになる。目的は、当時のエジプトの第一人者ムハンマド・アリーに近づき、フランス軍の秘密を探ることにあった。表向きは、エジプトの近代化を進めるムハンマド・アリーの要請で、灌漑設備を整えるための協力、にあったようだ。

イギリス政府からスパイに任命されるまでの経緯は不明である。しかし彼は、「学はなくとも人をそらさない愛嬌と知性を備えていた」、とは作家ウォルター・スコットの弁である。

イタリアにいたころには同性愛者であったベルツォーニは、ロンドンでアイルランド人のサラと出会い、生涯を共にすることになる。彼女とともに、ベルツォーニは意気揚々とアレクサンドリアに乗り込んだ。

 

7トンの「ラムセス二世像」をロンドンへ

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当時のエジプトには、「外交官」や「監視団」などという肩書を持った外国人があふれていた。結局、イギリスとムハンマド・アリーの会談は失敗に終わる。

ところがベルツォーニはそのような失敗などものともせず、ナイル川中流テーベで発見された「ラムセス二世の(若きメムノン)」の胸像を、ロンドンに送り届けることに成功するのである。この胸像は、ラムセス二世の神殿の入り口を飾っていた2体のうちのひとつと伝えられている。

重さが7トンもあるこの胸像の運搬は、怠惰な労働者たちを巧みに統率しながら、気温が50度を超えるような過酷な状況で行われたという。しかしこの一件は、古代エジプト学の歴史の中では最も意味がある一事として扱われるようになるのである。

ベルツォーニが考古学の分野で頭角を現したのは、直観に恵まれれるという幸運も大きかった。彼は、現在「王家の墓」と呼ばれている谷に巨大な墓所群があることを理解していた最初の人物であった。

アブ・シンベル神殿の発見

クリスチャン・ジャックの歴史小説ですっかり知名度が上がった「アブ・シンベル神殿」。

ベルツォーニは、谷の石灰岩をはじめとする土壌の不規則な様相から、地下にある墓所が連鎖していることを理解した、と回顧録に書いている。

こうして、1817年にベルツォーニはアブ・シンベル神殿の入り口を発見する。紀元前13世紀のファラオであったラムセス二世と彼の最愛の妻ネフェルタリのために建造された神殿の敷居を、ファラオ自身と高位の聖職者に続いて3000年後にまたいだのがベルツォーニであったのだ。

当初は、報酬のためにエジプト入りしたベルツォーニは、考古学者としての地位を確立したはずであった。

 

墓所さえも定かでないベルツォーニの最後

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ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニは、1815年から4年間をエジプトの考古学に捧げている。その間、アブ・シンベル神殿の入り口発見以外にも、プトレマイオス王朝の遺跡を発掘したり、不可能といわれたカフラー王のピラミッドの入り口を発見するなど、第一線で活躍した。

1819年、ベルツォーニはロンドンに戻り、英国人たちに大歓迎されたという。折からの、古代エジプトブームであったから、まさに時の人として扱われたことは想像に難くない。

1823年、ベルツォーニは今度はアフリカに旅立つ。ベナンのニジェール川源泉を見つけるという使命を帯びていたという。しかし同年12月23日、赤痢によって死去。

ベルツォーニの遺体は、アフリカの大木のもとに埋葬されたという。しかし、その場所は不明のままである。

彼の劇的な人生は、映画「インディー・ジョーンズ」を撮影する際にはジョージ・ルーカスにインスピレーションを与えたともいわれているのである。

 

Sachiko Izawa

*Discovery認定コントリビューター

イタリア在住ライター。執筆分野は、アート、歴史、食文化、サイエンスなどなど。装丁が気に入った本は、とりあえず手に入れないと気持ちが落ち着かない書籍マニア。最近のひとめぼれは、『ルーカ・パチョーリの算数ゲーム』。@cucciola1007