【ボーダーを超えていけ】第4回:人はどこまで深く潜れるのか-水深100m「グラン・ブルー」を超えて

  • 「爬虫類の脳」になって潜る

2004年、篠宮さんは会社員からプロフリーダイバーに転身。その直後に行われた、キプロス島の大会直前のトレーニングでのこと。水深85mを目標に潜ったが、「もっと行ける」とさらに攻めてしまった。すると90mを目前に身体が異常な反応を示す。パニック状態になり慌てて浮上、途中で意識を失ってしまった。酸欠による失神、「ブラックアウト」を起こしたのだ。「プロになったし『結果を出さないと』と焦ってしまった」(篠宮さん)。死への恐怖が脳や全身に刷り込まれ、その後2年ぐらいスランプに陥ってしまう。

必死にもがく篠宮さんが出会ったのが「禅」、そして「ノーシンキング」という言葉だ。今に集中し、体の状態と海との調和に全神経を研ぎ澄ますこと。

調和が壊れると感じたら、たとえ目標地点まであと1mの地点まで到達していても、即座に引き返す。「1秒でも迷いが生じたらダメ。酸素を消費してしまう」。篠宮さん曰く、論理的思考や感情などを司るのは大脳の仕事であり、酸素を消費してしまうという。「こうすれば勝つと論理的に考えたり、恐怖を感じたりするのは大脳の仕事。一方、体温調節や呼吸、血圧など生きるか死ぬかを司るのは小脳の仕事です。小脳だけを働かせて大脳は眠らせた状態にしておく。つまり、爬虫類の脳になって潜るのです」

とは言え、無意識に色々考えたり感じたりしてしまうもの。大脳を使わないようにできるのか?鍵を握るのは大脳と小脳の間にある偏桃核(偏桃体とも呼ばれる)だと篠宮さんは言う。人は命の危険を感じると『怖い』という情報を偏桃核を通して小脳に伝え、心拍数が上がるなど過緊張の状態になる。偏桃核をリラックスさせるにはどうしたらいいか。例えば潜る時は30mまでキックし、30mからは耳抜きに全神経を集中させ、最後の5mはターンをする準備、など意識を作業に集中させる。大切なのは、ちょっとずつ時間をかけて身体や偏桃核をならしていくこと。「結局は脳とのだましあいなのです」(篠宮さん)

そして生死を分けるのが「もう一人の自分」の存在。勝利へのプレッシャーがかかる試合で目標地を目前にして体調が急変したとき、「帰ろう」というもう一人の自分の声に耳を傾けられるか否か。「そこで突っ走るとブラックアウトになってしまう。ブレーキをかけられる客観性をもてるか。生きるか死ぬかのスポーツはそれが鍵になる」

約5分間で水深100mの「死の世界」と光あふれる「生の世界」を行き来する。2016年バハマ大会にて。(Photo credit:アプネワークス)
  • 海と溶け合うー母なる海に抱かれる至福の時

人間はどこまで深く潜れるのか?「この7月、130mの世界記録が出て、時代が変わりました。素潜りは肺に貯められる酸素の量と酸素をいかに効率よく消費するか、その二つが要因です。でもそれ以上に大きいのがメンタル。死への恐怖を克服することが(記録を出した)彼の最大の強さだと思います」

「死と隣り合わせの世界」を目指し、10気圧以上の水圧を受け、肺や鼓膜が破れる恐怖、酸欠の恐怖にも気持ちをもっていかれないように、ただ無心で往復する。5分弱でこんなに凄まじい環境の変化に晒される極限のスポーツがほかにあるだろうか?

しかし、篠宮さんは極限とは対極にある言葉を口にした。「海深く潜るとき、極限状態で苦しいのでは?と思われがちです。実はそうじゃない。お母さんのお腹の中に浮かんでいるような懐かしさを感じ、心の中はとても穏やかなのです」。自分と海との境界がなくなり海と溶け合い、母なる海に抱かれているような至福の時なのだと篠宮さんはいう。そして、「生の世界に戻ってきたときは、宇宙から帰還したかのよう。最初に吸う空気は最高で、生まれ変わって『新しい自分』になる感じがする」と。

2016年に引退した今は沖縄を本拠地に、若手選手を世界に送りこもうと育成に力を入れている。さらに「自然との一体感」を感じることができるフリーダイビングをもっとスタンダードにしていきたいと。「現役の頃はいかに日本人で初めて水深100mを突破するかが夢でした。これからはフリーダイビングをいかに100年続くスポーツにできるか、挑戦しがいのある夢に向かっています」

 

林公代

*Discovery認定コントリビューター

宇宙・天文分野を中心に取材・執筆するライター。(財)日本宇宙少年団情報誌編集長を経てフリーランスに。世界中でロケット打ち上げや、天文台を取材。著書に「宇宙においでよ!」(野口聡一宇宙飛行士と共著)、「宇宙へ『出張』してきます」(古川聡宇宙飛行士らと共著)「宇宙就職案内」など。この連載では柔軟な発想・手段でボーダーを超える人々、極限に挑戦する人々を追いかけていきたい。https://gravity-zero.jimdo.com/

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