【ボーダーを超えていけ】第3回:目の見えない人がナビゲートする美術鑑賞

うまく説明できない!から始まる本当の関り

東京都写真美術館「TOPコレクション たのしむ、まなぶ イントゥ・ザ・ピクチャーズ」展での「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」活動の様子(撮影:石原新一郎)

「(「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」のような)ソーシャル・ビューで面白いのは、最初は『見える情報を見えない人に伝えなきゃ』という一般の人が障害者に接するときにありがちな態度から始まるのに、ある時点で見える人もうまく説明できなくなって、失語症みたいになってしまうこと。その『説明できなさ』がすごく重要で、そこから見える見えないを超えた『本当の関り』が始まる」。伊藤亜紗さんはそう話し始めた。

見える人同士なら「見て、あれ!」ですむことを、言葉にしないといけない。例えば色彩の説明は難しい。言葉に詰まり何とか説明しようと必死になって、たがが外れだすのだと。

「例えば同じオレンジ色を見ても『夕陽のような』、と表現する人がいれば『スペインのような』と説明する人もいる。全部間違ってなくて正解はない。でも『スペインっぽいってどういうこと?』と問われて初めて、なぜ自分はスペインっぽいと思ったのか自分自身に問い直し、『地中海に行ったときにこういう経験があって‥』と必死に語り始める。見える人も見えない人も一緒になって全員で『見る』という経験を共同作業にしていくのです」

同じオレンジ色を見ても解釈がわかれ正解はない、と説明する伊藤亜紗准教授

「見えるという価値が暴落する」

ソーシャル・ビューでは、見えない人の「上書きするような、やわらかいイメージの作り方」を見える人が体感できることも新鮮。「そもそも、見えない世界の一番の特徴は予測が立たないことなんです。机の上にコップがあると思っていても、誰かが持っていってしまうこともある。想定外を想定内にして、思い込みすぎないようにどんどん柔軟に頭の中のイメージを変えていく習慣がついている」。確かに、同じ作品に対する他の人の異なる見方を聞くと、作品が違って見えてくる。やわらかな見方を少しだけ手にいれたような気がした。

一方、見えない人にとっても発見がある。例えばXmasツリーの作品のように解釈が分かれた時。「生まれつき目が見えない人は、『見える人が正解を知っている』という印象がある。だけど『見る』と言っても正解のような絶対的権威があるわけでもなく曖昧だとわかる。ある視覚障害者の方は『見えるという価値が暴落する感覚』と言ってましたね」(伊藤さん)。見えない人にとって神格化され絶対的だった「見えること」が自分の手元におりてくる。生理的には見えないけれど解はいっぱいある。それなら自分でもできるな、と。

見えない人が触媒となり、作品の見方がより深くなる。この新しい美術鑑賞をぜひ多くの人に体験してほしい。ところで「見える人」とこれまで書いてきたけれど、地球人の目は体の前にしかついていない。もし、後ろ向きにも目がある宇宙人がいたら、地球人はどんな風にみられるのだろう?

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